bottibottiの日記

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日本の城 その1 大分・府内城

城について語るというのはなかなか難しい。

城ができた時代背景、築城者の想い、受け継いだ方々、現在見守る方々の想いは大変重いもので、敬意をもって考えないといけないからだ。

恐縮ながら、私も日本史好きで各地の城を訪ね歩いているので、ちょっとだけ私見に基づき語らせてもらいたいと思う。

そんなわけで今回日本の城シリーズを始めます。

記念すべき第1回は大分市の府内城。

現在残っている部分だけみると、規模も小さく平城でもあり、評価が難しい。

しかし、資料を読み、つぶさに見て回るとなかなか興味深い城である。

1597年頃の築城開始ということで、例えば大友氏が立て籠もったと言われる高崎山城のような山間部ではなく、平野部で、しかも当時の海沿いにあるところに妙味がある。

戦乱の時代が終わり、比較的泰平時代の城なのだろう。要は、時代にマッチした海城なのだ。類例として高松城小倉城が挙げられる。そこから読めるのは、秀吉軍団の考え方だ。防備を固めるだけでなく、統治のしやすさ、機動性や兵站線(物流)を重視しているように思える。秀吉自身、小谷城から長浜城へ移っている。

石垣について見てみると、そこまで高くはない。しかも慶長の城は概ね野面積みから打込み接ぎになっていく時代の流れがあるが、府内城は丸々とした自然石を多用した野面積みだ。玉石積みのように見える部分もあり、そうした石たちの個性豊かな表情は一見の価値がある。このような形になったのは、秀吉の没年が1598年だから急ぎ城を完成させる必要があったのかもしれないなどと往時へ思いをめぐらすのもまた楽しい。しかし防備は大丈夫かと周囲を見渡すと堀の幅が広いことに気づく。水の力を活用しているのだ。

また現在、城の周囲は官庁街になっているが、その辺りは三の丸にあたり武家屋敷があったという。そうなると相当な規模だったと想像できる。

築城を始めた福原氏が改易になったあと、府内城を完成させたのは竹中半兵衛の一族、竹中氏だ。ここで重要なのは町民地を整備してより巨大な城域を成立させていることだろう。町民を守るという意識の表れなのかも知れない。

その後、松平氏の城となり明治維新を迎える。

白い漆喰の壁は、耐火性はもちろん、「徳川の白」をよく表しているようだ。

 

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現存する宗門櫓 工事中で土壁が露出していた。

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現存する人質櫓

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足場を組み上げて模擬天守とし、ライトアップしていた。(2019年2月時点)

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石垣の表情がとても良い